微笑


放課後の部活動 ――
男子テニス部では、レギュラー陣の紅白試合が行われていた。

野菜汁を手に眼鏡を光らせる乾の後ろで、
すでに試合を終えた不二と菊丸は、
フェンスに寄りかかって他のメンバーの試合を観戦していた。

すると…

「ゲームウォンバイ！」

隣の女子テニス部のコートから、歓声と拍手が響く。

２人が振り返って見ると、２年生レギュラーの　が、
校内ランキング戦で３年生を破ったところだった。
は満面の笑みでギャラリーの声援に応えている。

「はにゃ〜…ちゃん、かわいいにゃ〜…」

菊丸はフェンスにしがみついて、ふぬけた声で言った。
不二は何も言わずにほほえんでいる。
するとは２人のほうを向いて、大きく手を振った。

「ちゃ〜ん、おっめでと〜！」

大喜びで手を振り返す菊丸。だがそれは勘違いで…

「薫ちゃん見ててくれたー？　私、勝ったよー！！」

が手を振っていたのは、２人のそばにいる海堂。

「チッ…」

海堂は小さく舌打ちすると、照れくさそうにその場を去っていった。

「ちぇ〜っ、なんだよ海堂のヤツ〜。
　だいたい、あの２人が幼なじみっていうのがなぁ…
　ちゃん、い〜っつも海堂にくっついてるんだもん。」

菊丸が、ぶ〜…とむくれながら言った。

「そうだね。確かに彼はちょっとジャマかもね。」

いつもと変わらぬにこにこ顔で不二が言う。

「あーっ！？　もしかして不二もちゃん狙ってんのー？
　そんなの、絶対ダメだかんねー！！」

ギャーギャーわめく菊丸を尻目に、不二はテニスコートを後にした。

「（くすっ…いいこと思いついちゃった、かも…）」


＊　　　　　＊　　　　　＊


その日の部活終了後。

部員達が帰った後、副部長の大石は、部室で時間をもてあましていた。

「（はあ…海堂のヤツ、練習熱心なのはいいんだけど…）」

部室の鍵を管理している大石は、部員全員が帰るのを待って
部室を施錠しなくてはならない。
だが、海堂は大会が近くなるといつも、部活終了後も残って
自主練をしていくため、大石はそれが終わるまで
こうして待つ羽目になるのである。

そこへ、不二が入って来た。

「なんだ不二。まだ帰ってなかったのか。」
「うん。大石もいつも大変だね。今日は僕が代わろうか？」
「いや、いいよ。いつものことだし。」

不二は部室の鍵を自分に渡すよう手を差し出したが、大石は丁重に断った。
だが…

「いいから僕に貸しなよ…ね？（開眼）」
「あ、ああ…それじゃあ頼むよ…」

カッと目を見開いた不二に恐れをなした大石は、
鍵を渡すとすごすごと退散した。

「（さて、次は…と）」

不二は部室から出て周囲を見回す。

しばらくすると、部活を終えたが、
タオルで汗を拭いながら歩いて来た。

「さん。」

偶然を装って声をかける。

「あ、不二先輩。コンニチハ。」
「試合、お疲れさま。頑張ってたね。
　今日は暑いから、男テニのみんなにミニストップのソフトクリームを
　買ってきたんだけど余っちゃってさ。
　良かったら食べていってくれないかい？」

が食べ物につられやすいことは知っている。

「えーいいんですかぁ！？　食べます食べます〜！」

案の定、目を輝かせてついてきた。


＊　　　　　＊　　　　　＊


「はい、どうぞ。少し溶けちゃってるけど…」

不二は部室にを連れ込むと、コンビニで買っておいたソフトクリームを
クーラーボックスから取り出して手渡した。

「いただきまーす！　ん〜…おいしー…！」

は幸せそうな顔でソフトクリームをほおばっている。

「ねぇ、さん。」
「はい？」
「単刀直入に聞くけど…さんって海堂とつきあってるの？」
「ぐっ…！！」
「あ…ごめんごめん。びっくりしちゃったね。
　ただ…あんまり仲がいいから、ちょっと気になってさ。」
「けほっ、けほっ…だ、大丈夫です…
　あの…私と薫ちゃんはただの幼なじみで、そんなんじゃないですよ？
　小さい時からずっと、一緒にいるのが当たり前だったんです。」

は、無邪気に笑って答えた。
周りからはどう見ても恋人同士なのだが、
彼女の認識では、あくまで“ただの幼なじみ”なのである。

「そっか…でも僕は、海堂がうらやましいな。」
「え、なんでですかー？」

不二はの正面に腰を下ろすと、にこりと笑った。

「さん、かわいいから。」
「え…っ…」
「ふふっ、ほっぺが赤くなってるよ。」

不二はの顔をのぞき込んで、楽しそうに言った。
男子とは思えないほどに繊細で儚げな容姿。
色素の薄い髪と瞳。甘いテノールの声。
“綺麗”という形容がよく似合う不二にじっと見つめられて、
の思考は完全にストップしてしまっていた。

そこで不二が窓の外に目をやると…
自主練を終えた海堂が、こちらに向かって歩いて来るのが見えた。

「（そろそろ、いこうか…）
　そんなに恥ずかしがらないでよ。」

うつむいているの顔を両手で包んで上を向かせる。
不二に触れられた頬は、ますます赤みを帯びていった。

「くすっ…かわいいね。ほんとにかわいい。」
「不二…せんぱ…」
「もっとよく見せてよ…」

そう言うと、不二は自分の額をの額にくっつけた。
食べかけのソフトクリームが、ポトリと床に落ちた ――

その時…

ガチャ ―― ！

部室のドアが、勢いよく開かれる。
そこには、海堂が呆然と立ち尽くしていた。

「…………………」

長い沈黙の後…

「俺…何も…見てないっスから…！」

海堂は、きびすを返して走って行ってしまった。

「薫ちゃん…」
「…まずいとこ見られちゃったかな。」

ふう…と、不二がため息をつく。
もちろん彼にとっては全て計算どおり、なのだが。

「僕達…キスしてるように見えちゃったかもね。」
「え…っ」
「仕方がない、僕が行ってくるよ。誤解は解かなくちゃね。
　さんはここで待ってて。」

そう言うと、不二は部室を後にした。


＊　　　　　＊　　　　　＊


海堂は、青ざめた顔でテニスコートのポールにもたれかかって
座り込んでいた。
そこへ不二がやって来る。

「…そんな全力で逃げることないのに。」
「先輩…俺…本当に何も見てませんから…」
「ふふっ…海堂、嘘は良くないよ？」
「スンマセン…」
「あの…先輩はと…？」

海堂は、不二と目を合わせないようにして言った。

「そっか…さんは君の幼なじみなんだよね。
　でも安心して？　なんでもないから。」
「…そう、ですか…」
「うん。ただ…さんがあんまりかわいいから、
　僕が口説いてただけ。」
「なっ…！」

かっとなってつかみかかってきた海堂を、不二はひらりとかわして言った。

「ねえ…なんでそんなにムキになるの？
　もしかして海堂は、さんのことが好き？」
「う…っ！（図星）」
「それで君は今の関係から抜け出したいと思っている。」
「う…っ！（さらに図星）」
「でも彼女は君を幼なじみとしか思っていない。」
「う…っ！（完全に図星）」
「あはは…分かりやすいね、海堂は。」

不二は、さも楽しそうにケラケラと笑った。

「でも君がそんな調子じゃ、いっこうに進展しないよ？」
「で、でも俺…どうしたら…」
「だからさ、僕がうまくいく方法を教えてあげるよ。」
「はぁ…？」

海堂は、不二がなぜ恋敵であるはずの自分を助けてくれるのか、
理解できずにいた。
ただ、もともとつかみどころがない性格というのは分かっていたので、
恋愛に関しても淡白なのだろうと思うことにした。

「こういうことはね、男の側からリードしていかなくちゃ。
　いいかい、今から僕が言うとおりにやってごらん…」

そう言うと、不二は海堂に何やら耳打ちを始めた。
……………

「そ…っそんなことできないっスよ！！」

海堂は、顔を真っ赤にして叫んだ。

「そう？　でも僕が今まで間違ったこと、言ったことあったっけ？」
「……」
「早くしないと、他の男に取られちゃうよ？
　さっき僕がしてたみたいに…ね？」
「そ…それは…」
「さんには部室で待っててもらってるから…頑張って。」
「…ハイ…」

海堂は、小さくうなづくと部室に向かった。

そうして海堂が立ち去った後。

ガサガサッ…

「不二〜！！」

突然、近くの植え込みの中から菊丸が顔を出した。

「英二…どうしてここに…？」
「コンビニの前でアイス食べてたら大石に会ってさ、
　不二の様子がおかしいっていうから戻って来たんだよ〜！
　それより不二、どうして海堂を応援すんの！？」
「分かってないなぁ、英二は。
　応援なんかしていないよ、むしろその逆。
　いいかい、さんはまだまだコドモで何も分かっていない。
　そして海堂のことも全く男として意識していない。
　そこでむりやり迫られたりなんかしたら…ね？」
「だっ…ダメだよそんなことしちゃ！
　ちゃんがかわいそうだよッ！？」
「…なにも本当にやれなんて言ってないよ。
　だいたいさんと海堂がくっついてるのが
　気に入らないって言ったのは英二でしょ？
　僕は君の力になりたいなって思っただけ…」
「うぅ〜…」

菊丸の脳裏に、“魔王”という言葉が浮かんで消えた。

「くすっ…まぁ見てなって。（楽しいね、まったく…）」


＊　　　　　＊　　　　　＊


そのころ部室では、が一人途方に暮れていた。

「（あーあ…薫ちゃんも不二先輩もいなくなっちゃうし、
　ソフトクリーム落っことしちゃったし…）」

はぁ〜…と大きなため息をつく。

そこへ、ようやく海堂が戻って来た。

「薫ちゃん…！」

誤解が解けたのだと直感したは、ほっとした表情を浮かべる。

だが海堂は、無言のままを見据えていた。
後ろ手でドアを閉めると、切羽詰まった表情で歩み寄って来る。

「薫ちゃんどうしたの…？」

きょとんとした顔で自分を見上げるに、一瞬躊躇したが。

「ひゃっ！？」

海堂はの腕をつかんで思い切り引っぱった。
その勢いで椅子から転げ落ちたをさらに押し倒し、
逃げられないように両腕を床に押しつけた。

「薫ちゃん？」

床にあお向けにされたまま、
はぱっちりと見開いた目で海堂を見つめていた。
そこにあるのは恐怖でも不安でもない、
純粋な戸惑いの色だけだった。
相手は男である前に“ただの幼なじみ”。
これから自分が何をされるのか、全く分かっていないのだ。

「（駄目だ…俺にはできねェ…！）」

罪悪感にさいなまれ、ギュッと目を閉じたその時。

「 ―― はあっ！！」

の甲高い声とともに、自身の体勢が崩れるのが分かった。
その一瞬のスキをついて、今度はが海堂の上に飛び乗る。

「へへっ、形勢逆転っ♪」

そう言うとは、かろうじて自由になっている海堂の片腕を
小脇に挟み込み、さらに自分の腕を海堂の首に巻きつけて
グッと締め上げた。

「う…ぐ…離せ…俺が悪かった…！」

たまらず海堂がうめく。するとは、

「やったあ！　いっぽーん！！」

大喜びで叫ぶと、ぱっと海堂から離れた。

「あ゛…？」

今度は海堂が、なにがなんだか分からないという表情を浮かべる。

「今のはね、“けさ固め”っていうんだって。（←ちょっと違うと思うが）
　昨日テレビで柔道の試合見てて覚えたんだ。私の勝ちー！！」

どうやらは、海堂が柔道の寝技を仕掛けてきたものと
勘違いしたらしい…。
とんでもない勘違いなのだが、そのことにかえって
安堵を感じる海堂だった。

「私に負けるなんて、まだまだだね。」
「越前の口真似してんじゃねぇ…」
「えーだってあの子かわいいんだもん。
　初めはヤな奴ーって思ってたけど、見れば見るほどかわいいー！」
「……（コイツの感性、大丈夫か）」
「それより薫ちゃん、私の勝ちだよ？　何かおごって♪」
「…（どうしてそうなる？）。何がいい…？」
「ミニストップのソフトクリーム！
　部活もう終わったから、食べながら帰ろっ。」
「フン…勝手にしろ…」


＊　　　　　＊　　　　　＊


コンビニで買ったソフトクリームを手に、
並んで歩く海堂と。

「不二先輩、何か言ってたか…？」

海堂が、さりげなく探りを入れる。

「んーっとね、私のことかわいいって。
　不二先輩って、私のことからかうの、好きだよねー。」

あっけらかんと答えるを見て、海堂はため息をつく。

「…今後一切、不二先輩には近付くな。」
「えーっ、なんでー！？　不二先輩すごく優しいのにー！
　さっきだって私にソフトクリームくれっ…んぐっ…！！」

海堂は、懸命に抗議するの口に、
自分のソフトクリームを押し込んだ。

「んなモン…いくらでも俺がくれてやるから…」

……………

一方、先刻からずっと陰で２人の様子を見ていた不二と菊丸は…

「なーんだ、ぜーんぜん意味なかったじゃん。」
「うーん…さんの行動は計算外だったかな。
　まあ、２人とも当分はあの調子だろうから焦る必要もなさそうだけど。
　頑張りなよ、ね、英二…？」

そう言うと、不二はにっこりとほほえむのだった。

「（でも…最後にを落とすのは、僕だからね…？）」
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