ラストシーン 「 ―― 以上により３勝２敗１ノーゲーム、青学の勝利です！！ 　両チーム共、整列してください。」 「礼っ！」 「「ありがとうございました！！」」 …………… こうして、関東大会初日は一回戦のみで終了。 氷帝学園の全国への挑戦は幕を閉じたのだった ―― 最後の整列で、鳳は人目もはばからず涙を流した。 勝負の世界に身を置くとき、そこには勝者の数だけ敗者が存在する。 頭では理解できても心が納得できず、 あふれてくる涙を止めることはできなかった。 「…………………」 青学との熱戦が繰り広げられたコートに、鳳はひとり戻って来ていた。 暮れかけた陽に彩られたフィールドにはポールとネットが長い影を落とし、 紅と黒のコントラストを描き出す。 誰もいなくなった応援席。 その最前列に腰を下ろし、ガクリと頭を垂れた。 履き慣らした左右のシューズとそれに挟まれたコンクリートが揺らぎ、 その境界線が崩れ始める。 そこに、ズルズルと引きずるような足音。 「…鳳君、」 名前を呼ばれても顔を上げるつもりなど毛頭なかったが、 いやがおうにも視界の端に、見覚えのある、 細い足首に巻かれた包帯が映ってしまう。 「さん…」 涙をのみ込んで視線を上げた先には、 自分達を破った対戦校の制服に身を包んだ少女が どこかぎこちない笑みを浮かべて立っていた。 勝者としての喜びでも敗者に向ける哀れみでもない、 どっちつかずの表情。 まさか彼女がここに来るとは思わなかった。 わずかな時間をともに過ごしただけで、その後別々の応援席に戻り、 もう会うこともないと思っていた。 それでも鳳は、今日出会ったばかりのこの少女に、 懐かしさにも似た感情を抱いていた。 会いたかった。 再び涙腺が緩みそうになるが、ぐっとこらえて平静を装う。 「みんな帰っちゃいましたね。さんはいいんですか？ 　海堂君、きっと心配してますよ。」 「あ、薫ちゃんにはちゃんと言ってきたから大丈夫だよ。 　それより鳳君、さっき泣いてた。 　私がこんなこと、おせっかいかもしれないけど…気になっちゃって… 　…あ！　あー…それにね、せっかく仲良くなれたのに、 　このままお別れしちゃうのも寂しいって思ったっていうか… 　…えっと…その…泣いてた、から…」 不器用ながらも懸命に自分を気遣ってくれるを見て、 喉の奥が熱くなるのを感じた。 すぐにでも全てを吐き出したい衝動に駆られたが、 それを悟られないようつとめて明るくふるまう。 「あ、あれ見てたんですかー？ 　恥ずかしいなぁ、あっはは…」 だがその姿は、痛々しい以外の何ものでもなかった。 赤くはれ上がった目元に、歪んだ太い眉。 鳳は、明らかに作り笑いをしている。 普段は人の感情に鈍感なにさえ、それが分かった。 無理なんかしなくていい。楽になっていい。 そんな願いを込めて、は優しく語りかけた。 「恥ずかしくなんかないよ。 　一生懸命で、大切だから…悔しかったり、悲しかったりするんだよ？ 　こういう時は…男の子だって我慢しなくていいと思う…」 「……ッ……う…っ！」 の言葉には、人の心を動かす力があるのだろうか。 これまで必死に抑えていたものが堰を切ったようにあふれ出し、 頬を伝っていった。 「俺…っ、勝ちたかったで…す… 　みんなと…一緒にッ、全国…っ、行きたかっ…た…っ…」 ぽたぽたと落ちる雫が、コンクリートの地面に染みを作っていく。 「ずっと…一緒にッ…宍戸さんっ、と…ダブルス組んでッ、 　もっと…いっぱい一緒にっ、テニス…っ、してたかった…っ… 　これで引退だなんて…そんなっ、いやだよぉ…っ！」 座り込んでうなだれたまま、大きな体を震わせてしゃくりあげる。 「鳳君…」 は彼の正面に歩み寄ると、その頭だけをぎゅっと胸に抱いた。 鳳は、怪我をした自分を助けてくれた。 あんなにも反抗的だった自分を、最後まで見捨てないでいてくれた。 許してくれた。優しくしてくれた。 だから今度は、自分が彼を守ってあげたいと思った。 だけど、何ができるか分からなかった。 “あなたはよく頑張ったよ” “私達のせいで、ごめんなさい” 伝えたいことはたくさんあるのに、どんな言葉を贈ったところで 彼を追いつめるだけのような気がして、声にならない。 こうすることが、今の彼女にできるせいいっぱいだった。 「さん……、さぁ…ん……ッ……」 の胸に顔をうずめたまま、鳳は泣き続けた。 その熱を体に感じると、そこから悲しみが伝わってくるようで、 胸が苦しくなる。 それに耐えるために、はきゅっと唇をかんだ。 いとおしさがあふれてきて、せつなくて、心が痛い。 いたたまれなくなったは、 彼だけでなく自分自身をも落ち着かせるために 目の前で震えるシルバーアッシュの髪を優しくなでた。 「鳳君は…素直な子なんだね…」 少しくせのある短い髪は思いのほか量があって、 の小さな手に柔らかな弾力を与える。 「鳳君が、早く元気になりますように…」 ―― どうか届いてほしい、小さな祈り。 やがては鳳の頭を体から離すと、 その髪に触れていた両手をそのまま下にずらす形で びしょ濡れの顔を包み込むようにし、 親指で涙を拭ってやった。 そして頬に触れたまま自らの顔を近付け、 その額に静かに唇を落とした ―― 一瞬の、出来事。 だけどそれはどこか神聖な儀式のようで… 鳳には、その刹那が永遠のようにも感じられた。 「、さ…ん…？」 「…おまじない。」 は、鳳の隣にストンと腰を下ろしながら言った。 そして、泣き笑いのような笑顔を向けて続ける。 「小さい時にね、私が泣いてるといつも薫ちゃんがこうしてくれた。 　“もう泣かないで”って言って、してくれた。 　そうするとね、なんだか安心して、怖くなくなって、 　それで胸の…このへんがあったかくなって…」 「さんっ…！！」 「！！？」 「ごめんなさいっ…！ 　…でも…少しだけ、こうさせてください…っ！」 「……………」 何が起きたのか、分からずにいた。 全身を締めつけるような、熱い感触。 その中に一点だけ頬に感じた冷たい感触は、 たった今まで隣にいた少年の胸に光っていたロザリオ。 は、強い力で鳳に抱かれていた。 「失礼なことしてるのは分かってます… 　けどっ、今だけは…そばにいてほしいんです…」 男が女を求めるそれではない、人が人を求める抱擁。 幼い２人にはその違いを知る由もなかったが、 感情の欲するままに一人の人間を求めることができるのも、 そしてそれを抵抗なく受け入れることができるのもまた、 その幼さゆえだった。 「離したくないんです… 　もう少し…もう少しだけ、こうしていていいですか…？」 鳳の腕の中は、なぜかとても居心地がいい。 は、そっと目を閉じた。 「…いいよ。鳳君がいいって言うまで、ずうっとここにいる… 　どこにも行かないよ…」 鳳はの髪に顔を押し当て、さらにその腕に力を込めた。 　　　痛みを知っているからこそ、僕らは強くなれる。 　　　哀しいほどに一途で、純粋なあなたに。 　　　こんなにも汚れた世界で 　　　あなたはただ綺麗なものを 　　　偽ることなく美しいまま 　　　拾い上げて見せてくれた人　―― Back