カンタービレ 生徒達の姿もまばらになった、放課後の氷帝学園中等部。 静まり返った校舎の片隅にある音楽室から、 かすかにピアノの音が聴こえてくる。 音の主は、この学園の生徒である鳳。 傾きかけた陽が差し込む中、真剣な面持ちで鍵盤を叩き続ける。 力強く、激情を帯びて。 しかしその一方で奏者の性格を反映してか、指運びはとても丁寧で その大きな手からは想像もつかないほど繊細な旋律を紡ぎ出していた。 …………… 「ふう…」 弾き終わって一つ、大きく息をつく。 パチパチパチパチ… 「！？」 突然の拍手。 この場に自分一人しかいないと思っていた鳳は、 驚いてその方向に体を向ける。 「さんっ…！？」 そこには大きな目を輝かせながら、小さな手をいっぱいに開いて 自分に拍手を贈ってくれているの姿があった。 「どうしてここが…？」 「今日はうちの練習が中止になったから、いきなり行って 　チョウタびっくりさせようかなーって思ったらいないんだもん。 　それで樺地君に聞いたらここじゃないか、って。 　チョウタすっごいね、ピアノ弾けるなんて知らなかったよ！」 「あ、ハイ…幼稚園に入る前からずっと習ってるんです。」 「そっかー、テニスだけじゃなくてピアノも上手だなんて、 　チョウタのこと見直しちゃった。」 にっこり笑うにつられて、鳳も軽くほほえむ。 だけどその笑顔にはどこか陰りがあって、 いまいち何かがふっ切れていない様子で… にはそれが不自然に思えて仕方がなかった。 「チョウタ…どうしたの…？ 　あんな難しそうな曲弾けた後なのに、 　私すごいなーって思ったのに… 　チョウタ、あんまり嬉しそうじゃない。」 「そ、それは…」 「何かいやなことあった？　チョウタが元気ないと心配だよ。」 「…………」 椅子に腰かけてうつむいたままでいる鳳。 はその正面の床にぺたりとしゃがみこむと、 “話して”と促すかのように鳳を見上げる。 その仕草にようやく張りつめたものが解けた鳳は、 ぽつりぽつりと沈んだ表情の理由を語り出すのだった。 「…実は次の日曜に、通ってる教室の発表会があるんです。 　でも俺…みんなが見てる前だとあがっちゃって… 　指がもつれて、頭が真っ白になって暗譜したのも忘れちゃって… 　いつも失敗しちゃうから、それが憂鬱で仕方ないんです…」 「チョウタぁ…」 しゃがんで見上げたままの体勢で一瞬だけ顔を曇らせた だったが、すぐに思い直して明るく笑う。 「それでもやっぱりチョウタのこと、すごいって思うよ。 　自信持っていいよ！」 「そ…そう、ですか…？」 「そうだよ。だって私、楽器なんてなーんにもできないもん。」 「そうなんですか…？」 「うんっ、歌うの専門！　でもそのぶん、歌は大好きだよ。」 楽しくて楽しくてしょうがない、といった感じで 満面の笑みを浮かべながらは立ち上がる。 「あんまり上手くはないんだけどさ、歌う、ってことが好き。 　歌の…歌詞あるでしょ？ 　普通に言葉でしゃべったら恥ずかしくて、 　笑われちゃうようなことばっかりなのに… 　でも胸張って、大きな声で気持ち伝えられるから。 　それってステキだと思わない！？」 「さん…」 鳳の頬に、少しだけ赤みがさす。 「…あ、ごめんね…ピアノと全然関係なかったね。 　ダメだなー私、自分が好きなことだとつい夢中になっちゃって…」 それまで興奮気味に話していたは、 頭を掻きながら照れ笑いをした。 「……………」 鳳は何か思い立ったように突然隣にある準備室に駆け込むと、 そこからバイオリンを持ち出してきておもむろに弾き始めた。 「…！」 それは、もよく知っている曲。 バイオリンをも自在に操る鳳に、 初めは驚いた様子でぽかんとしていただったが、 サビの部分をひととおり弾き終えたところで“歌って”というように 目配せされるとちょっとだけはにかんで、だけど嬉しそうに 曲に合わせて歌い出した。 …………… 「…すごーいっ、チョウタってバイオリンも弾けちゃうんだ！」 歌い終わると、は拍手をしながら笑った。 「チョウタが曲弾いて、私が歌って…楽しいね！」 「はいっ、俺も楽しかったです！」 ようやくいつもの笑顔に戻った鳳。 それを見たは、何かに気付いたように向き直った。 「チョウタは…バイオリン弾くの好き？」 「は、はいっ」 「ピアノ弾くのは？　嫌い？」 「そ、そんなことないですっ、大好きです！」 少しばかり焦りの色を見せる鳳だったが、 はさらに続けて尋ねる。 「ピアノ弾いてる時ってどんなふう？　今みたいに楽しい？」 「あ、あの…えっと… 　物心ついた時にはもう習い始めてたんで、 　考えたこともなかったですけど… 　でも今、俺の曲に合わせてさんが歌ってくれたのがとても嬉しくて。 　…………… 　…あ、そうか！　ピアノもこれと同じなんですよね。 　さんの歌と俺の曲みたいに、 　右手と左手…両方が重なって響き合って、 　一つの音じゃ表現できなかったものをいくらでも生み出せるから… 　その瞬間がたまらなく楽しくて、俺はピアノを弾くんです！」 「チョウタ…」 はふんわりとほほえむと、 鳳の左右の手を自らの両手で包み込むようにしてきゅっと握った。 「私、チョウタの手って好き。大きくって、強くって… 　でもそれだけじゃない、私のことぎゅってしてくれる時はすごく優しいんだ。 　いろんなふうにできるチョウタの手だから… 　私が歌うのなんかよりずっと、いろんな音が出せると思う。 　…大丈夫、もう失敗なんかしない。 　だってチョウタはピアノが好きで、楽しいんだもん。 　きっとうまくいくよ…」 「さん…」 の言葉に聞き入っていた鳳は、最後に大きくうなづくと ピアノの前に歩を進めてペンを手にとった。 そして、開かれたままになっていた楽譜の最初の小節に、 単語を一つ書き加える ―― “cantabile” 「キャ、ン…ト…？」 「カンタービレ。」 「カンタービレ…？」 首をかしげるに、鳳は照れくさそうに説明する。 「音楽の発想標語で、“歌うように”っていう意味です。 　俺…今度の発表会、これで弾いてみようと思います！」 「“歌うように”…？」 「はいっ。今さんが歌ってくれたことを忘れないように。 　一緒に演奏した楽しさをこの曲で表現したい。 　さんがいてくれるって思えば、俺、なんでもできますから…！」 「チョウタ…」 は、少しだけ頬を赤らめた。 ＊　　　　　＊　　　　　＊ こうして、発表会は無事に終了。 割れるような拍手喝采の中で、ライトの光を仰いだ俺は ただ一人、さんのことを想っていた。 部活の試合で会場に来られないことをとても残念がっていたけれど、 その日の夜、電話の向こうで弾んでいるその声は 他のどんな賞賛の言葉よりも俺にとっては嬉しいものだった。 そして今日も、俺は音楽室でピアノを弾いている。 目の前にあるのは、何も書かれていない、真っ白な楽譜。 そこに俺は、俺自身の手で音符を記していく。 あの人のために、曲を創ろう ―― 歌の詞には気持ちを伝える力がある、とあの人は言ってた。 だけどそれはきっと曲にも共通していることで、 言葉では表せなくてもこの旋律が俺の想いをのせて、 あの人に届けばいいと思う。 この広い世界、たくさんの人の中で、あなたに出会えたこと。 あなたという人が、生まれてきてくれたこと。 そのすべてに対する感謝を曲にして贈ったら… あなたは…さんは、また俺に笑いかけてくれますか？ 「できた…」 終止線を引き、ペンを置きかけた俺は、はっとしてその手を止める。 それからぱらぱらとページを戻していき、 曲の冒頭にしっかりと書き込んだ。 “cantabile” special thanks to S.A Back