学園天国 ― 私の王子様 ― 「薫ちゃん…キス、して…？」 「俺なんかで、いいのか…？」 「うん…初めては薫ちゃんがいいの。」 「…」 ……… 「…チッ…」 海堂は、思い詰めたような表情で布団から身を起こした。 ＊ ＊ ＊ 文化祭を目前にしたある日の放課後、 男子テニス部の部室は重苦しい空気に包まれていた。 「ったくいつまで経っても部室が綺麗になりゃしねえ…。 使ったもんは片付けろっていつも言ってんだろうがゴラァ！！」 必要以上に殺気立つ海堂。 もともと恐い顔が、今日はさらに恐くなっている。 「オイ誰だこんなところにクーラーボックス置きっぱなしにした奴は！？」 「ああ、ごめんね海堂。 それ、僕達のクラスの出し物で使うことになってね…」 「不二先輩でしたか…スンマセンっした…」 不二がクーラーボックスを開けてみせると、 その中に詰め込まれたドライアイスが白い煙を上げた。 「なあ…今日の海堂先輩、いつにも増して恐くないか？」 ひそひそと話をする堀尾・加藤・水野の１年生トリオ。 そこに越前が、ファンタを飲みながら通りかかる。 「あぁ、それ…桃先輩から聞いてる。 文化祭の劇で、桃先輩と先輩のキスシーンがあるからでしょ。」 「「キスシーン！！？」」 部室の時間が止まる。 菊丸は青ざめ、不二は目を見開き、乾は眼鏡を光らせた。 「う…うそだあ…ちゃんが桃とキスだなんて… 桃のバカバカアンポンタンオタンコナス〜〜〜！！！」 号泣しながらどこかへと走り去る菊丸。 「なかなかに興味深い…面白いデータが取れそうだな。」 乾はデータノートを取り出し、ぱらぱらとめくり始めた。 部員達に衝撃が走る傍ら、大石と河村が手塚のもとに歩み寄る。 「こりゃ大変なことになったな。」 「で、でも俺達まだ中学生なんだし…、 そういうのって、マズイんじゃないかな？」 「本人達が合意しているのなら止めることはできないだろう。 それに今回の劇には、何か事情があると聞いている。」 「それで、桃は今どこに…？」 「練習が大詰めということで、今日は２年８組全員が欠席だ。」 ＊ ＊ ＊ 同じ頃、桃城との在籍する２年８組では… 「ああ、なんと美しい姫だろう。 呪いをかけられ百年もの間眠り続けた可哀想な姫。 どうか私の口づけで目覚めてお…く…… ぶっはははは…こんなクセぇセリフ言えねーな、言えねーよ、 ははははははは…！！」 「…はい、カット！」 「もーっ、マジメにやってよ桃ー…！」 ダンボール箱をつなげて作ったベッドから むくっと起き上がったが、不満そうな声を上げた。 「だ、だってよお…セリフもセリフだし、相手がとか… ひははははは…！」 「ち、ちくしょう…もう俺の妖精Ｃと代わってくれよ桃！」 「いや無理だから、マサやん…」 涙目で桃城に詰め寄る池田を、林がなだめる。 「今のシーンからもう一回やり直しだ、池田は持ち場に戻れ！」 監督役の荒井が、メガホンを振り回しながら指示を出す。 「ったく…本番が近いんだ、みんなちゃんとやれよ！」 「そうだよ、石川さんのためにクラスみんなで 本気出すって決めたんだから…！」 ＊ ＊ ＊ 時は遡り、１か月ほど前。 ２年８組の生徒達はホームルームの時間を使い、 文化祭の出し物について話し合っていた。 カフェ、お化け屋敷、バンド等々いろいろなアイデアが出される中… 「あの…演劇、やらせてもらえないかな…？」 震える手を上げながら発言したのは、校長の孫娘である石川。 校長と同じく度の強い眼鏡をかけ、七三分けにした髪を 三つ編みのお下げにした、真面目で物静かな女子だ。 「実は昨日、家でおじいちゃんとケンカしちゃって…」 席を立った石川は、涙ながらに語り出す。 とは言っても、度の強い眼鏡に遮られて実際のところは 分からないのだが、おそらく泣いているのだと思われる。 「…私、将来は演出家になりたくていろいろ勉強してるんだけど… おじいちゃんは自分と同じように教師になってほしいんだって。 でも私、どうしても夢を諦められなくて…今度の文化祭で、 私が本気だってことをおじいちゃんに認めてもらいたいの！」 「石川さん…」 「…ごめんなさい…やっぱり無理だよね。 私のわがままに、みんなを巻き込んじゃうなんて…」 石川が席に着こうとした、その時。 「そんなことないっ、諦めちゃ駄目だよ！」 が石川のもとに駆け寄り、その手を握った。 「おうよ、そんな簡単に諦めちゃいけねーな、いけねーよ。 こうなりゃどーんと一肌脱いじゃいますか、なぁみんな！？」 桃城も立ち上がり、クラスのみんなに呼びかける。 「そうだよ…そういうことなら、みんなで石川さんの夢を応援しようよ！」 「最高の劇にして、校長に納得してもらおうぜ！」 続々と席を立ち、石川の周りに集まる生徒達。 「えっかくだから、演技も音響も美術も、超本格的にやってみない？」 「こうなりゃとことんリアリティの追求だ！」 「「リアリティ、リアリティ、リアリティ！！」」 どこからともなく巻き起こる“リアリティ”コール。 「あ、ありがとう、みんな…！」 「「リアリティ、リアリティ、リアリティ！！」」 石川を中心にいつまでも続く“リアリティ”コール。 「ああ…なんて素敵なクラスなんでしょう…！」 一致団結した生徒達を見て、担任の神保先生は涙を拭うのだった。 ＊ ＊ ＊ その後の話し合いで、主演はクラスの人気者である桃城とに決定。 だが、演目がなかなか決まらなかったためくじ引きをした結果、 『眠れる森の美女』になったのだが… 「ねえ…この話、キスシーンなかったっけ…？」 「「あ…」」 「「……………」」 みんなで拳を突き上げて叫んだ“リアリティ”という言葉が、 どこまでも重くのしかかる。 「ね、ねえ…これって…キス“シーン”なんだよね…？」 「まさか、本当にするわけじゃねえよな…？」 おそるおそる、と桃城が尋ねる。 「うん…まあ…でも…いくら２人がつきあってないって言っても… うちら、いつも普通に回し飲みとかしてんじゃん？」 「チュッってしちゃえばいいのよ、一回くらいどうってことないでしょ。」 「え、無理無理無理無理！」 が首をぶんぶんと振りながら叫ぶ。 「だって私…したことないもん。」 「え、って海堂君とつきあってるんじゃなかったの！？」 「ちょっ…そんなんじゃないって、ただの幼なじみだから！」 「えーでもあんなに仲いいんだから、普通つきあってると思うよね？」 「もうキスくらいしてるんだと思ってた…」 「そんなことないからっ、やめてよやめてよ〜！」 色めき立つ女子達と、必死に否定する。 「うおおーうらやましいぜ海堂！」 「海堂のヤツ、なんてもったいないことを…！」 「俺だったらもうとっくにさんと…！」 男子達までもが騒ぎ出す。 「でも海堂君って、そういうことにはウブなんじゃない？ 女の子なんか興味ないって感じ。」 「えーでも見た目あんなだし…いざとなったらスゴイのかもよ？」 「にその気はなくても、本当はムラムラしてるのかもね。」 「ぎゃはははそれ言えてるかも〜！ マムシ野郎、の前でだけ野獣君になっちゃいけねーな、いけねーよ！」 「もう、やめてよ桃〜！」 「いやああ〜ちゃんが海堂君のエジキに…！」 「うおおおー海堂になりてエエエー！！」 「海堂に生まれたかったアアアアア〜〜〜！！！」 響き渡る女子の悲鳴と男子の雄叫びで、 ２年８組の教室はもはや収拾のつかない状態に。 その声は、海堂のいる隣のクラスにも筒抜けだったようで…。 「なんか隣…盛り上がってるな…」 「大丈夫か、海堂…」 海堂は、顔を真っ赤にして肩を震わせていた。 「（８組の奴ら…以外全員殴る…！）」 ＊ ＊ ＊ そんなこんなで迎えた本番。 演劇の会場となる体育館には、２年８組の生徒総出で作成した 大掛かりなセットが組まれ、客席には前評判を聞いた生徒達が 期待（主に女子）と絶望（主に男子）を胸に多数詰めかけていた。 「…って、なんでアナタ達までいるんですか！？」 朋香に悪態をつかれているのは、月間プロテニス記者の井上と芝。 「ちょうど近くに来たものだから、ちょっとのぞいてみようかと思ってね。」 「桃城君が王子様をやるのよね。楽しみだわ！」 「このあと、男テニの模擬試合にもお邪魔させてもらうよ。」 「別にいいけど…リョーマ様の取材ならこの私を通してもらわないと！」 「ちょ、ちょっと朋ちゃん…」 大人達に突っかかる朋香を止めようとオロオロする桜乃。 そうこうしているうちに、成長した王女が登場する場面となり、 が舞台上に現れる。 「わぁ…先輩、素敵…！」 ふんわりとしたドレスを身にまとい、 下ろした髪を緩いウェーブにしてメイクをしてもらったは とても綺麗で、観客達ははっと息を飲んだ。 「頑張れ桃、ちゃん…！」 「うぅ…ちゃ〜…ん…」 客席で固唾を飲んで見守る河村と、涙が止まらない菊丸。 物語は進み、あっという間に問題のシーンになってしまった。 王子（桃城）が王女（）の眠る部屋にたどり着き、 その傍らに跪く。 「、いいか…？」 「う、うん…」 緊張した面持ちの桃城が小声で尋ねると、 は覚悟を決めたというように小さく頷いた。 「ここで桃の心拍数７６．８％、さんの心拍数８２．３％上昇。」 何やらブツブツ言いながらビデオを撮る乾の隣で、 海堂はクッと小さく呻き、膝の上で拳を握り締めた。 意を決した桃城が、の顔をのぞき込む。 「（すまねえ…エージ先輩、マサやん、それに海堂…はどーでもいいや。 それでは男・桃城 武、ビシッと決めさせていただきます！）」 ……… ジリリリ…！ 「「！！？」」 突如鳴り響く非常ベル。 「火事だー！」 誰かが叫び、生徒達は我先にと体育館の外へと走り出す。 「みんな、落ち着いて避難するんだ！」 「列を乱すな、油断せず逃げろ！」 教職員とともに大石と手塚が率先して生徒達を誘導するその最中、 どこからか流れてきた煙が室内に充満し始める。 「きゃあああ〜ッ！！」 「ヤベェ、前が見えない…！」 「押すなバカ！」 逃げ惑う生徒達で、真っ暗な体育館はもう大混乱。 「やだ…煙…！？」 も急いでベッドから飛び降りたものの、 長いスカートがセットに引っかかってしまい、動けずにいた。 「、どこにいる！？ …クソッ、暗くて見えねえ…！」 自分を探す桃城の声。 「何してるんだ桃城、早く逃げろ！」 「桃！？ 待って桃ー！」 無理やり動こうと力いっぱいスカートを引っぱったその時、 バランスを崩した巨大なセットがめがけて倒れてきた！ 「ッ…！！」 ＊ ＊ ＊ しばらく経ち、避難してきた生徒や教職員達は校庭に集まっていた。 体育館のドアや窓からは、未だ煙が噴出している。 「あれ、ちゃんは…？」 「まさか、まだ中に…！？」 にわかにざわつき始める２年８組の生徒達。 「そんな…さん…」 「ちくしょう…、すまねえ…！」 手で顔を覆う神保先生の隣で、 桃城は膝をつき、地面に拳を打ちつけた。 「「………」」 校庭に絶望が広がる中… 「フシュゥゥゥ…」 煙をかいくぐるように体育館から現れた海堂。 その腕には、が抱きかかえられていた。 「ちゃん…！」 「良かった、良かったよお！」 「はっ、やるじゃねえか海堂…！」 桃城達クラスメイトは安堵の表情を浮かべ、 女子生徒達は手を取り合って喜んだ。 「ここで海堂の好感度８４．５％上昇。」 「かっこいいわ、海堂君！」 上演中からビデオを回し続けている乾の側で 芝が構えるカメラのシャッター音が響き、 校庭は拍手に包まれた。 「…ん…？」 が、ゆっくりと目を開ける。 その瞳に映ったのは、倒れてきたセットからを庇って 怪我をした海堂の横顔。 「薫…ちゃん…？」 「…痛いところはねえか？」 「うん…！」 はにっこりと笑い、海堂の首に腕を回してぎゅっと抱きついた。 「助けてくれてありがとう… 薫ちゃん、ホンモノの王子様みたいだねっ！」 「…フン…」 海堂は頬を染め、照れくさそうに目をそらすのだった。 ＊ ＊ ＊ その頃、屋上では… ただ一人校内に残っていた不二が、 壁に寄りかかって校庭を見下ろしていた。 「ここまで騒ぎになるなんて思わなかったよ。 それに、逃げ遅れたさん…いや、を海堂が助けたのは想定外。 ちょっと計算が甘かったかな…」 その足元には、空になったクーラーボックスが大量に転がっていた… Back |