夏空の彼方に明日が見える（３） 　　　　　これで、サヨナラだよ。 　　　　　どこにもない場所で、私はあなたのしあわせを 　　　　　願い続けるから。 　　　　　あなただけは色褪せないで、綺麗なままでいて。 　　　　　そのための、サヨナラ。 　　　　　ずっと、サヨナラ ―― チョウタの声がする。 やっと来てくれたね。 ずうっと、待ってたんだよ。 会いたかった。苦しかった。悲しかった。 今すぐにでも、その腕に飛び込みたかった。 だけど ―― “鳳はお前のこと迷惑がってんだよ！” “お前が鳳を駄目にしてんだよ！” 切り裂くような言葉の数々。 は、きゅっと口を結んだ。 「さん…」 いたわるような、鳳の声。 「……………」 だけど振り返らない。 だってそれは、真実ではないから。 「さん…あの…」 「何か用？」 感情を殺して、冷たい声で。 「大丈夫…でしたか…？」 「何が…？」 「えっと…」 「………………」 「………………」 長い沈黙。 ここにきて、とてつもない罪悪感が鳳を襲った。 自分が動けなかったばかりに。 不甲斐ないばかりに、臆病なばかりに。 それだけ多くの痛みを彼女に負わせてしまった。 自分がためらうことなく飛び出していれば、 少しでも勇気があったならば。 もっと早く彼女を救うことができたのに ―― ！ 「ご…ごめんなさいっ！」 口をついて出た謝罪。 「…なに謝ってんのよ。」 は、なおも冷たく言い放つ。 明らかに、いつものではない。 助けて、なぐさめて、大切にしてくれた。 いつだって、柔らかく包み込んでいてくれた。 そんな彼女が今、自分に背を向けて、 刺々しい台詞を放っている。 それはきっと、自分の責任… 「ごめんなさい…」 誰も鳳を責めてはいなかった。 彼を責めているのは、他でもない彼自身。 ただ、傷ついて自分を拒絶する少女を前に、 自分を責めずにはいられなかった。 「ごめんなさい…」 「だからなに謝ってんの？」 「今…その…せ、先輩方が…」 「…関係ないでしょ、“鳳君”には。」 「やだっ…いつもみたいに名前呼んでくださいよ…！」 「…………………」 「先輩方がしたことも俺が代わりに謝ります、 　何を言っても許してもらえないだろうけど…でもっ…！」 「…だからそのことは関係ないって言ってるでしょ！？」 は、声を張り上げる。 あなたは悪くないんだよ。なんにも悪くない。 きっと今だって、必死に探して、探し回って ここまで来てくれたんだよね。 私との約束を守るために。 でも、もう無理なんてしないで。 私があなたを堕としめるなら、あなたは離れていけばいい。 それでもあなたは優しくて、 そんなことできるわけがないと知っているから。 それなら私があなたのもとを立ち去ればいいんだ。 それが、不器用な私があなたに返せる、 せいいっぱいの優しさだと思うから ―― 「私は…」 「え…？」 「私はあなたのことが嫌いになったの！　“鳳君”のことが！！」 「…そんな…どうして…」 「………………」 「そんなこと言わないでっ、何か悪いことしたなら謝ります、 　いやなところがあるなら直しますから！」 振り返らなくても、鳳がどんな目で自分を見ているかが分かる。 きっと、棄てられた仔犬のような哀しい目。 人なつこい鳳のこと、どんな相手であれ面と向かって 嫌悪を告げられるのは、この上ない苦痛を伴うのだろう。 そして、拒絶されてもなお、すがりついてくるのだろう。 たとえそれが、疎ましいと思う人間であっても。 それすらも痛みと感じられるほど、あなたの心は綺麗だから ―― ごめんね。 でも、あなたのためなんだ。 あなたには、輝き続けていてほしいと願うから。 そのためには、私がここにいてはいけないんだ。 だから… 「はっ、勘違いしないでよ。なにイイ子ぶってんの？ 　じゃあ私が死ねって言ったら死んでくれるわけ！？」 「そんな…」 「気に入られようとして必死こいて媚びちゃって、バカみたい。 　その善人ヅラがむかつくのよ！」 できるだけの汚い言葉で、無残に、粉々に。 砕け散ってしまえばいい。 鳳が、心から自分を嫌ってくれるように。 「…さ…ん…」 「まだ分からない？　アタマ悪いんじゃないの？ 　私はあなたのことが嫌いだって言ってるの。 　もう帰って！　帰ってよ…」 喉の奥が苦しくて、痛くて、熱くて。 お願いだから、私を嫌いになって。 もっと、もっと、嫌いに… 「いやだ…そんなの、いやだよ…」 「…………………………」 「こっち…向いてください…お願いです…」 「やだ…もう顔も見たくない… 　…二度と私の前に現れないで！！」 悲壮な、叫び。 これで全てが終わりだと思った。 このまま鳳がこの場を去ってくれれば。 もう二度と会うこともなくて。 これで、よかったんだ。 これで、サヨナラ ―― だが ―― 「いやです！！」 強い声が、背中に突き刺さる。 「絶対にいやです！ 　さんがどんなふうに言っても、俺は信じませんから！」 先程までのうろたえた様子など微塵も感じさせない、 意志のある言葉。 そして、ぽつりぽつりと語りだす。 「初めて会った日…負けて泣いてた俺を、 　さんはなぐさめてくれましたよね…」 記憶が甦る。 関東大会初日。 出会いは最悪だった。 偶然ぶつかったのが全ての始まり。 幼なじみの海堂を破った相手ということで、 ことごとく反抗していた。 やがて打ち解けたものの、その後すぐに別々の応援席に戻り、 互いにそれっきりだと思っていた。 だが、一回戦終了後。 初戦敗退と親しくしていた宍戸の引退が決まり、涙していた鳳。 それに気付き、再び彼の前に現れた。 そして… 「あの時…さんがいてくれて本当によかった…」 「…………ッ」 あふれてくるものを抑えようとかみしめた唇に血がにじむ。 スカートの裾を握りしめる手は、強い圧迫で指先が白くなっている。 振り返りたい。でも振り返ってはいけない。 「あの時さんがいてくれて、俺はどれだけ救われたか…」 「……っ……う……っ！」 もう、耐えられない。 嗚咽が漏れ始める。 「忘れちゃったんですか…？ 　俺達、あんなに仲がよくて、いつも楽しくて、笑ってた。 　さんはいつだって俺のこと考えて、 　俺に優しくしてくれたじゃないですか… 　それをみんな、なかったことにしろって言うんですか！？」 「……っ、……うああ…ッ！！」 は、その場に泣き崩れた。 「やだぁ…ッ、やだよぉ… 　チョウタとお別れなんて、やだぁぁ…」 「さん…」 ぺたりと座りこみ、子供のように声をあげて泣く。 その正面にまわり込んだ鳳は、あまりに痛々しいその姿に愕然とした。 袖が引きちぎられ、ぼろぼろになったブラウス。 リボンを取り払われてはだけた胸元。 腕に残る引っ掻き傷は、抵抗した際に付けられたものだろうか。 端正な顔は歪み、何度も叩かれて赤みを帯びた頬は 涙でぐちゃぐちゃに濡れていた。 鳳は、しばし言葉を失くしてしまう。 「ごめん…なさ…っ、…ごめんな、さい…っ 　全部…嘘…言ったこと…みんな、嘘…なの… 　チョ…タのこと…嫌いじゃない…ッ」 しゃくりあげながらもなお、は続ける。 「チョウタのことっ…嫌いじゃないっ、から… 　お願い、だから…私のこと…嫌いにならないでぇ…」 「え…っ？」 鳳の表情が変わる。 「チョウタが負けちゃうの、やだぁ… 　練習できないんだったら、遊ぼって言うのやめる… 　もう会うのやめるから…だから迷惑なんて言わないで…！」 「え…？　ちょ、ちょっと待ってくださいよ…！」 不可解な発言に気付いた鳳は、と向かい合うようにしゃがみこみ、 小さな肩をがっしりとつかんで確かめるように尋ねた。 「俺が…さんを迷惑って…？」 「私…っ、チョ…タのそばにいちゃ…ダメなんだよね…？ 　でも…チョウタは優しい子だから、それが言えないから… 　私っから…いなくなればいいんだって、思って… 　思って、るのと…反対のッ…こと…言って…」 言葉は途切れ途切れで順序もまちまちだったが、 彼女が言おうとしていることは理解できた。 “この人は、校内戦で俺が負け続けているのは 　自分と会っているせいだと思っている。” 先程榊にもそのように誤解されたばかりだ。 “そしてそのせいで俺に嫌われたと思い込んでいて、 　それで俺のもとから離れていこうとしている。” だが、他校生の彼女が校内戦のことを知っているはずがない。 ましてや、自分の対戦成績なんて… 「……………」 先程まで彼女に乱暴していた４人組の先輩。 あの人達は、自分のことをひどく憎んでいる… 「…………！」 鳳は、意を決して尋ねた。 「今の…さっきの先輩方に言われたんですね…？」 は、コクンとうなづいた。 「だから…もっといっぱいチョウタに嫌われればいいって思った。 　でも…もう嘘つくのやだ、チョウタのこと悪く言うのやだ…、 　チョウタに嫌われるの、やだよぉ…！」 「さん…」 怯えたように泣きじゃくるを、鳳はそっと抱き寄せた。 「体…こんなに冷えて…震えてる… 　怖かったですよね、寂しかったですよね…！」 そして、もう大丈夫、というようにその背中をさすってあげた。 「ど…して…」 は、体をこわばらせたままでいた。 これまでに自分に向けられたありとあらゆる言葉が交錯して、 何が真実なのか分からない。 「どうして…そんなに優しいの…？ 　今までだってそう…どうして、無理して優しくしてくれてたの…？ 　チョウタは、私のこと迷惑って思ってて…嫌いなんだよ…？」 「俺は無理なんかしていません…」 鳳は腕に力を込め、諭すようにゆっくりと語りかけた。 「本当のこと言うから、よく聞いて。 　俺は、さんのこと、迷惑じゃない。 　嫌いなんて思ったことは、一度もない。 　これまでさんと一緒にいたのは、 　あの人達じゃなくて俺なんです。 　俺を、信じて…」 見開いた目に、夏空の色が映る。 鳳の肩の向こうに広がる空は、哀しいほどに蒼い ―― 「俺は、さんと一緒にいたい。 　さんが笑ってくれれば、俺だって嬉しい。 　さんが泣いてるのは、俺だって悲しい。 　信じてください…お願い…」 「…………………」 は、おそるおそる鳳の体に腕をまわす。 すると鳳は、それに応えるかのようにさらに強く抱きしめた。 髪をなでる大きな手。 いつもの匂い。いつもの体温。 安堵の涙が、鳳のシャツを濡らしてゆく。 …………… 「ごめんなさい…」 再び、鳳の口から出た謝罪。 「俺を…許してください…」 「チョウタ…？」 その理由が分からないは、戸惑いの色を見せながら その顔を見上げた。 そして、はっと息を飲んでしまう。 頬を伝って、落ちていくもの。 鳳は、泣いていたから ―― 「ごめんなさい…俺が頼りないばっかりに…守ってあげられなくて…」 ぽろぽろと涙をこぼしながら、ひたすらに許しを請う鳳。 は、なにがなんだか分からずにいた。 「なんで…チョウタが謝るの…？ 　ひどいこといっぱい言ったのは、私だよ？ 　さっきの人達のことだって、チョウタのせいじゃないよ？ 　チョウタはなんにも、悪いことしてないんだよ…？」 鳳は、首をぶんぶんと振った。 「俺…っ、実はもっと早くからここにいたんです。 　さんがぶたれてるのもちゃんと見てて…助けたいって思った。 　でも…怖くなって…どうしようもなく怖くて…出ていけなくって… 　さんが苦しんでるのに…最低ですよ、俺…」 「…何がそんなに怖いの？」 「…………………」 「ね…何に怯えてるの？　話して…？」 「でも…」 何一つ語ろうとせず、青ざめた顔で視線をそらす鳳。 はその涙を指で拭い、優しくほほえんでみせた。 「チョウタのつらいこと、私にも分けて？ 　私じゃ物足りないかもしれないけど、きっと少しは楽になる…」 「さん…」 それから鳳は、以前あの４人との間にあったことを、 全てに話して聞かせた。 正レギュラーになったばかりの時のこと。 この場所で自分も殴られたこと。 宍戸によって救われたこと。 それによって初めては、彼らが自分達の間を 引き裂こうとしていたことを理解したのだった。 時折声を詰まらせる鳳と、その大きな体に寄り添う。 傾いていく陽に、うずくまる二つの影が段々と細く長くなり、 やがて長い長い物語は終焉を迎える ―― 「俺は…弱い人間です。 　いつだって宍戸さんの後にくっついてて、守られてて… 　一人じゃ何もできなかった。 　さんのこと、大事にしたいって思ってたのに… 　守れなくて、傷つけてしまって… 　テニスだって同じです。 　宍戸さんがいなくなって、一人ぼっちになって… 　これからどうしたらいいんだろう、って。分からなくて… 　俺は…弱いから…」 「そんなこと言っちゃやだ…」 今度は、が鳳を抱き寄せる。 首に両腕を絡めて喉元に額を押しあてると、 視界の中央にロザリオの光が揺れた。 「人はね、みんな弱いんだよ。弱くて当たり前だよ。 　…でもチョウタはそうじゃない。 　誰にも負けないサーブがあって、200人も部員がいる中で 　レギュラーになって、大会で勝って… 　すごいプレッシャーで、つぶれちゃいそうだったと思う。 　でもチョウタは最後まで頑張ったよ。 　つらいこといっぱいあったのに…頑張ったんだよ。 　もう、十分だよ。チョウタはチョウタのままでいい…」 「さん…」 鳳はの体をそっと離すと、その肩に手を置いたまま、 まっすぐにその瞳を見つめた。 一点の汚れもない、強い眼差し。 そして息をすうと吸ってから、その口を開く。 「それでも俺は、もっと強くなりたい。 　もう守られてるだけなんていやだ…一人でも大丈夫なくらいに、 　…それだけじゃ駄目だ、さんを守れるくらいに強くなりたい…！」 祈りと、決意を込めて。 「約束します。宍戸さんがいなくなっても…来年はもっと上に行く。 　来年俺達が頑張ってる姿を…宍戸さんにも…さんにも見てほしい。 　さんがいるから、諦めたくないって思うんです…！」 「チョウタ ―――――― 」 は、すっ…と立ち上がり、座っている鳳に覆い被さるように その頭を抱き込んだ。 そして、上を向く形になった鳳の前髪をかき上げ、 その額に一つ、キスを落とす ―― ２人にとっては二度目となる、額へのキス。 一度目は初めて会った関東大会の初日。 泣いていた鳳を抱きしめて、そして贈った、“泣かないで”のキス。 　　　“…おまじない。” 　　　“そうするとね、なんだか安心して、怖くなくなって、 　　　　それで胸の…このへんがあったかくなって…” 「さん…どうして…？ 　“泣かないで”は俺が言わなきゃいけなかったのに…！」 「分かんない…分かんないっ、けど… 　チョウタにキス、したかったの…」 「俺が…泣き虫だから？」 「ごめん、分かんない…でも…きっとね、 　これって“泣かないで”だけじゃないんだよ。」 は、少しだけ笑った。 「負けないで」 雲の切れ間から、光が差した ―― ＊　　　　　＊　　　　　＊ 今日も、校内戦は続く。 俺には、負けられない理由がある。 負けてはいけない理由がある。 一人でも、やっていけると。 どんなふうに明日が来ても どんな痛みをこの身に受けても 間違いなく、乗り越えていけると。 証明するために。 あの人の笑顔を壊さないために。 目の前に続くこの道をまっすぐに進めば、 きっとあの人は笑ってくれるから。 迷わない。恐れない。 初めて大切だと、 初めて守りたいと思った あの人のために ―― たとえ今ここにその姿はなくても いつだってそばにいる気がする。 声がしてる。 “負けないで” 「ザ・ベスト・オブ・１セットマッチ 　鳳サービスプレイ！！」 ―――――― 勝ち続ける。 - Fin. - Back← リストに戻る