夏空の彼方に明日が見える（２） 君のその唇が、僕の孤独に温もりをくれた。 そんな君のために、僕は何ができるだろう。 何を君に与えられるだろう。 鳳が一人の少女を求めて校内を奔走している時、 その当人は屋上で彼の先輩にあたる男４人にとり囲まれていた。 「悪いのはあなた達でしょう、あんなひどいことするなんて… 私は謝る気なんて少しもないから！」 少女 ―― は、決して臆することなく、 なおも強い視線を向け続ける。 「本当に生意気な女だな、さすが鳳とデキてるだけのことはあるぜ。」 「え…どういうこと…？」 「べ、別になんでもねぇよ。 鳳“君”は俺らのカワイイ後輩だもんなー？」 「ああ、あんないいヤツはそうそういねぇよ、なぁ？」 「そう…」 彼らの発言に、何か引っかかるものを感じただったが、 おそらく気のせいだと思った。 だが、彼らの真意はそれとは違っていた。 “鳳に対する憎悪” ―― それが、彼ら４人に共通する感情。 一つ年下の後輩が、自分達を差し置いて 正レギュラーになったことへのやっかみ。 全ての始まりは、そこからだった。 準レギュラーにすらなれず、万年控えに甘んじていることへの焦燥。 準レギュラーそして正レギュラーへと、 目ざましい成長を遂げていく鳳への羨望。 それが憎しみに変わるのに、さほど時間はかからなかった。 後輩ですでにレギュラーとなっている者は他にもいた。 だが、彼らとて根は小心者。 自分達より強い相手とやり合うほどの度胸は持ち合わせていない。 それゆえ、温和な性格で人によっては気が弱いととられることもある鳳が その中でも格好のターゲットとなってしまったのである。 うらやましくて、そして憎くて、仕方がなかった。 そして自らの引退が決まり、レギュラーへの夢が完全についえた今、 その思いは破裂する寸前にまで膨れ上がっていた ―― 「もういいでしょ、早く帰してよ！ 私あそこで…」 「うるせぇな、鳳は来ねえって言ってんだろ！？」 「だからどうして…？」 「アイツはなぁ、今監督に呼び出しくらってんだよ。」 「そうそう。アイツここのところ校内戦で負けが込んでてな、 それが監督の目に余ってついにお説教ってワケ。」 「そんな…」 これは、引退後もたびたび部に顔を出している彼らが 実際に目にした事実。 女子部が練習試合を行っている間に、 一足先に練習を終えた男子部。 一日の活動を締めくくるミーティングで、監督の榊は 大会の終了によって無気力化した部員達を叱咤した。 その際名指しで檄を飛ばされた鳳は、 終了後に監督室に来るよう命じられたのだった。 だがこの話を持ち出したことの裏には、 彼らの明らかな悪意が秘められていた。 恋愛感情の有無は別としても、鳳とが 互いを大切に想い合っていることは一目瞭然。 この２人の間を引き裂くことで、憎い青学の生徒である少女と 自分達を差し置いてレギュラーとなった鳳、 不満足なままでの引退に多少なりとも助力した２人を 同時に陥れてやろうという意図があった。 そのためにはまず、この少女から… 「鳳が腑抜けになったのは、どうしてだか分かるか？」 「…？」 「お前だよ。」 投げつけられた言葉を理解するまでに数秒を要した。 は、顔をこわばらせる。 「（チョウタが負けてる…？ それは私のせい…？）」 男子部員達は互いに目配せすると、 意思を確認し合うかのようにニヤリと笑った。 さあ、ここからが本番。 どれほどの汚い嘘で罵り、陥れてやろうか… 「私が…いけないの…？」 「そう。お前がアイツにつきまとってるせいで、 アイツの練習時間が削られてんだよ。」 「アイツは自分の練習を犠牲にして お前につきあってやってるってこと。」 「そんな…こと…そんなことないっ！」 「だって鳳のヤツ言ってたぜ。 お前の相手すんのはもうウンザリだって。」 ―― 決定的な言葉。 「嘘…嘘だよ…そんなの、信じない… だっ…て…私達…あんなに仲良くなって… 今日だって遊ぶ約束してて…学校違うからあんまり会えないけど… でもいつも会えるの楽しみにしてるって…チョウタ、言ってたんだから…」 真っ青な顔でうわごとのように口走るを見て、 男子部員達はゲラゲラと笑った。 「何言ってんだよ。俺らアイツに相談されたんだよ、 面倒クセェからなんとかならないか、って。」 「だって私にはそんなこと一度も…！」 「はぁ？ バカじゃねーの？ これだから女は困るんだよ。 俺達は男同士で、しかもアイツから見れば先輩なわけ。 つきあいだってお前なんかよりずっと長いしな。 お前より信頼されて当然じゃん？」 「それにお前だってアイツの性格知ってんだろ？ アイツが面と向かってそんなこと言えるかよ。 お前に気ィ遣ってんだよ、考えりゃ分かるだろバーカ！」 「鳳がレギュラー落ちしたらお前のせいだからな！」 「やめて…」 信じたくなかった。 だけど、今日初めて遅刻した鳳。 それは呼び出しを受けているから。 そして、自分と彼が出会ったのはこの夏の初め。 以来彼は負け続け、今日、注意を受けている。 そう考えれば、合点がいく。 信じるしかなかった。 「やだ…いやだ…！」 なおも浴びせられる罵声の中で、 楽しかった鳳との想い出が次々と浮かんでくる。 人なつこい笑顔で甘えてきてくれた鳳。 やんちゃな自分をいつも心配してくれた鳳。 みんな、偽りだった…？ もう何も見たくない、知りたくない、分かりたくない。 「やめてぇ！ もう言わないでぇ！」 は、耳をふさいでその場にしゃがみこんだ。 それでもなお男達は、腕を引いて立ち上がらせようとする。 「逃げんのかよ、最後まで聞けよ！」 「俺らはアイツのこと想って言ってやってんだよ！」 「やだぁ…もう聞きたくない…」 涙を流し始めたを見て何かを確信した男達は、 震えながらうずくまっているその肩を突き飛ばした。 力を失くしてそのまま仰向けに倒れた小さな体。 その上に一人が馬乗りになり、残りの者が手足を押さえつける。 「それじゃあ、さっきのお返しといきますか…」 上に乗っている男の手が振り上げられ、次の瞬間、頬に強い衝撃。 その瞬間こそ何も感じなかったが、 後になってじわじわと痛みがこみ上げてきた。 「痛ぇかよ？ お前がさっき俺らにしたのと同じことだ、 文句は言えねぇよなぁ！？」 休む間もなく降ってくる平手打ちに、口をはさむことすら許されない。 「鳳はお前のこと迷惑がってんだよ！」 「お前が鳳を駄目にしてんだよ！」 口汚く罵られながら、右・左と続けざまに頬を叩かれる。 聞き分けのない子供が体罰を受けながら 何かを教え込まれるかのように、何度も何度も… “じゃあ俺、部活終わったら校門のところで待ってますね。 …え、女子のほうが終わるの遅いって？ あはは、いいですよ。俺、待ってますから。 さんが来るまで、ずっと待ってますから…” 朦朧とする意識の中で、は鳳と最後に交わした言葉を思い出していた。 ＊ ＊ ＊ 「はあっ…はあっ…」 狂ったようにを探し続けていた鳳は、 何かを思い出したようにふと足を止めた。 監督室から見た光景。 一つ年上の４人組の先輩。その顔ぶれも、あの時と全く変わらない。 彼らに前後を固められ、どこかに連れて行かれようとしていた。 それは紛れもなく、あの時の自分の姿。 あの時、自分が連れて行かれたのは ―― 「（屋上…！）」 鳳は、そこへと続く階段を駆け上がっていた。 正レギュラー専用のロッカールーム。 真新しい自分のネームプレートが差し込まれた扉。 開けた瞬間、目に飛び込んできたのは 破かれたユニフォームとガットを切られたラケットだった。 “…………” “あーあ…それもう使いモノになんねーな。” “先輩方…” “せっかく正レギュラーになれたってのに、 それじゃあ試合に出らんねぇなぁ。” “ひどいことする奴がいるんだなぁ、誰がやったんだろうなぁ？” “犯人探すんだろ、俺らも手伝ってやるよ。ホラ…こっち来いよ！” そして、連れて来られたのが屋上。 “え…先輩方、今なんて…！？” “物分かりの悪い奴だな、アレやったの俺らだって言ってんだよ。” “どうして…どうしてそんなことするんです！？” “テメェ２年のくせに正レギュラーだなんて生意気なんだよ！” “優等生気取りやがって、監督に取り入って うまいことやったんじゃねーのか！？” “サーブしか能がないくせに！！” 記憶の底に閉じ込めた過去。 それが今、再び繰り返されようとしている…？ 「さんっ…！」 最後の一段に足をかけたその時、外へとつながる扉の窓ガラス越しに 鳳が見たものは、４人の男と、彼らに組み伏せられている小さな少女。 「さ…！」 すぐにでも目の前の扉を開いて、彼女のもとへと駆け寄りたかった。 駆け寄って、奪い取って、抱きしめて。 だが ―― ―― パァンッ！！ 鋭い音が響き、それに呼応するかのように反射的に足を止めてしまう。 彼女が、叩かれた。 すぐにでも彼女を救い出したいのに。 今、彼女を救えるのは自分しかいないのに。 それでも、足が動かない。 「…ッ…ぁ……！」 その場に膝をつき、うずくまってしまう。 頭が痛い。 言いようのない恐怖。 “テメェなんだその反抗的な目はよォ…？” “ちっとワカらせといたほうがいいみたいだなぁ！？” そう ―― あの時、この場所で自分も殴られた ―― 意識して思い出さないようにしていた。 だけど… 目の前で起こっている光景は、あの時の記憶そのもの。 目の前で傷つけられている少女は、あの時の自分そのもの。 ダラダラと流れる汗は、おそらく走ってきたせいだけではない。 恐い 怖い コワイ ―――― ＊ ＊ ＊ 頬が痺れてる。 感覚は、なくなってしまった。 涙も、もう出てこない… ひとしきり叩かれてから、ようやく体を解放される。 それでもは、その場にぐったりと横たわったままでいた。 叩かれて頭を左右に振られたせいで、意識がはっきりしない。 うつろな目、半開きの唇、汗ばんだ肌… それらは男達の劣情をかき立てるのに十分すぎるほどだった。 ４人はの顔をのぞき込み、下劣な笑いを浮かべた。 「へへっ、よく見ると結構かわいいじゃねぇか。」 「俺は前に見たときから思ってたぜ。 なぁ…この女ヤっちまったら、鳳の野郎どんなツラしやがるだろうな？」 「面白ぇ…」 彼らが小声で話す言葉はかろうじての耳にも届いていたが、 それは幻聴だと思った。 だってチョウタは私のことが嫌い。 そしてこの人達はチョウタのことが好きで、 チョウタのことを想って私に… 「なんなら今からアイツここに連れて来て、 奴の見てる前でヤってやろうか？」 「それじゃあコイツ騙した意味ねーだろバーカ。 あとで鳳に画像送りつけてやるんだよ、 “お前の女は俺ら全員でマワしました”ってな。」 「それって鳳的に超ショックじゃねぇ？ ウケる…」 胸のリボンに、手が伸ばされる。 ＊ ＊ ＊ 激しい動悸と戦いながら、鳳は思い出していた。 あの時自分は、どうして救われた？ “ぅ……っく……” “どうした？ もう終わりかよ。” “見ろよコイツ、泣いてやがんぜ？ でけェ図体して、情けねーの。” “なんとか言ってみろよオラァ！！” あの時、自分を救ってくれたのは… “もうそのへんにしといてやれよ。” “宍戸！？” “お前らが下手クソなのが悪いんだろ？ そいつのせいにしてんじゃねーよ、激ダサだな。” “宍戸…せん…ぱ…い…？” そう、宍戸さんが来てくれたんだ。 自分よりずっと先に正レギュラー入りしていて。 コートを走るたびになびく長髪。漂々とした立ち振舞い。 憧れだった。 “お前、２年の…鳳、っつったか？ 今度こういうことがあったらすぐ俺に言え、いいな？” “どうして…自分のこと…？” “こういうやり方が気にくわねぇだけだ、俺がな。” “し、宍戸さぁんっ…！” “ああもう、ひっつくな！ 激ウザだぞお前…！” このことがきっかけで２人は親しくなり、ダブルスを組むまでに至った。 それからも嫌がらせは続いたが、 ここまであからさまにひどいことはされなくなった。 それはきっと、彼の存在があったから。 ―― いつだって自分は、守られていたんだ。 だけど、もうここに彼はいない。 今は、自分ひとり。 あの人を守りたい。 だけど今の自分は、それだけの強さを持ち合わせていない。 恐怖が呪縛のように体を縛りつけて…動けない。 宍戸さん、あなたがいないと何もできないんです。 あなたがいないと、俺は駄目なんです ―― ！ …………… 「いやぁぁぁぁぁッ！！」 泣き叫ぶ声とともに、ビリッ…と布の破れる音がした。 「 ――――――！！」 の声にはじかれるように、無意識のうちに鳳は立ち上がっていた。 …カシャ ―― ン…！ その拍子に、脇に立てかけられていた木材が倒れ、 乾いた音が響く。 「誰だ！？ 誰かいるのか！？」 「…！」 扉の向こうから飛んできた声に、 鳳はとっさに近くにある清掃用具庫の陰に身をかがめた。 「やべーよ、もう行こうぜ…」 人の気配にいささか恐れをなした４人は、行為の手を止めた。 「ちっ、これからだったのによ…」 「別にいいじゃねーか、だいたいマトモに考えりゃ青学の女なんて ヤる価値もねーよ。」 「それもそうだけどな…」 言葉とは裏腹に不服そうな顔を浮かべながら、 ４人は階段を下りていった。 長身を折りたたみ、息をひそめる鳳。 その存在に気付く者は、誰もいなかった。 ＊ ＊ ＊ 「さんっ…！」 鳳は、４人の姿が完全に消えたのを確認してから 開け放たれたままの扉をくぐって屋上に出た。 そこには少女が一人、儚げな背中を向けてぽつんと立っていた。 入道雲が太陽を覆い、２人の足元から伸びる影を薄めてゆく。 「さん…」 呼びかけても、振り向いてはくれない。 床に落ち、踏みつけられて汚れた制服のリボン。 ブラウスの片方の袖が身頃から引きちぎられ、 白い肩があらわになっていた。 心が、ひどく軋んだ。 Back← →Next リストに戻る |