風薫る季節に（２） ―― ５月１１日 ―― 数日前から、５月にしては荒れた天気が続いていた。 窓の外には、どんよりとした曇り空が広がっている。 休み時間に入ったばかりの２年７組の教室。 海堂は、放課後の部活に向けて黙々とラケットの手入れを始めた。 「海堂君…これ。」 そこに近付いていった三条が、海堂に新品のラケットを手渡した。 「これは…？」 「海堂君、今日が誕生日でしょう？ お父様に頼んで、海外から取り寄せてもらったの。」 「……」 訝しげな表情で、顔だけを三条のほうに向ける。 するとそこに、他のテニス部員達が集まってきて騒ぎ始めた。 「うおぉ！ これ、プロが使ってるのと同じモデルじゃね！？」 「ウン十万するやつだろ？ すっげぇー！！」 「海堂君のラケット、だいぶ使い古しているようだったから。 一流のプレーヤーは、道具も一流でなくちゃ。」 海堂は、手にしていた自身のラケットに目を落とす。 “たくさんあって迷っちゃうね。” “………” “あ、これがいい！ 私、これにする！ …薫ちゃんは決まった？” “どれだって大差ねえだろ…” “それなら薫ちゃんも同じメーカーのにしようよ！ これでお揃いだねっ！” 今より少し幼かった、の笑顔を思い出す。 入学前に、２人で一緒に買ったHEADのラケット。 「このラケットはもう要らないわね…私が処分しておいてあげる。」 三条が海堂のラケットに手をかけたその時。 「……………」 海堂の視線の先に、小さな箱を手にしたが立っていた。 大きな目を見開き、その表情はこわばっている。 「り…理亜ちゃんッ！」 は動揺した様子で、教室内にいるチームメイトを呼び止めた。 「どうしたのちゃん？」 「あッ…あのね、私クラスのみんなにおやつ作ってみたんだけど… その、なんか分量間違えて大量にできすぎちゃったみたいで…」 視線は宙を舞い、もともと高い声がさらにうわずっている。 「え、それって…？ 前に言ってたやつだよね、ケーキ作る練習してるって。 そういえば今日って…」 「そそそんなこといい言ってないよねー！？ と、とにかく理亜ちゃんに食べてほしいの、ホラ、友情の印的なアレで… いいから受け取って！」 持っていた箱を無理やり押し付け、逃げるように教室を出ていく。 「………」 その様子を、海堂はただ見守ることしかできなかった。 ＊ ＊ ＊ 「ちくしょう…ちくしょう…ッ！」 陽が傾き始めた中庭。 部活を終えたは、悔しさを紛らわすかのように、 あるいは怒りをぶつけるかのように、一心不乱に壁打ちを続けていた。 ザッ… 人の気配を感じ、は振り返る。 ひどく息が上がり、乱れた髪が汗で額や頬に張り付いている。 そんなを、涼しい表情で見下ろす三条。 対峙する２人。 「敵意…」 三条が、ぽつりとつぶやく。 「ものすごい敵意。テニスで負けたのがそんなに悔しい？」 「……」 「それとも…海堂君のこと…？」 「…ッ…」 は、さらに険しい表情を浮かべる。 「海堂君と親しくしている幼なじみ… あなたのことは、事前に調べさせてもらったわ。」 「だから何…？」 「こんな時期での転校、不自然だと思ってるんでしょう？」 「…何が…目的なの…？ …まさか、薫ちゃんに何か…？」 おそるおそる尋ねるの目を見据え、三条が口を開く。 「留学よ。」 「…留学…！？」 「海堂君は、私と一緒にアメリカにテニス留学をするの。」 「え…っ！？」 想像すらしていなかった返答。 理解するのに数秒を要した。 「彼とは小学校に入るまで、お父様のスクールで一緒にテニスを習っていた。 今回、私の留学が決まって、彼のことを思い出して… それで彼を誘うために、転校してきたの。」 「それだけの理由で転校…！？ そんなこと、できるわけない…！」 「できるのよ…お父様の力があれば。」 「…そんな…それじゃあ薫ちゃんの気持ちは？ 薫ちゃんにちゃんと話して、それで薫ちゃんが行きたいって言ったの？ 薫ちゃんの気持ちも聞かないで、勝手にそんなこと…！」 今にも殴りかかりそうな勢いで畳みかけるに対し、 三条は小さく息をつき、淡々と話を続ける。 「テニスのエリート…言うなれば世界に通用するプレーヤーを 育てるための留学なのよ？ 何か問題ある？ 学費や現地での生活は、大学卒業まで国が全面的にバックアップする。 彼やご家族にとっても、悪い話ではないはず。 …もっとも、彼に拒否権はないけどね。」 「どういうこと…？」 「彼は私と同じ、国が認定する特待生に選ばれたの。 今頃、お父様の秘書達が彼のご両親に話をしに行っているわ。」 「そんな…」 「今月末には日本を発つつもり。 私も準備があるから…これ以上あなたと話している暇はないわ。 じゃあね。」 髪をかき上げながら、足早に立ち去る三条。 湿った風が吹き、背中を流れていく汗がやけに冷たく感じる。 「…薫…ちゃん…」 は、膝を抱えてうずくまった。 ＊ ＊ ＊ 一時間程が経ち、とぼとぼと一人で下校してきた。 隣同士に住んでいるため、いやがおうにも前を通ることになる海堂の家。 広い庭の一角に、黒塗りの車が停まっている。 海堂は、少し離れた場所で素振りをしていた。 「…」 そのまま通り過ぎようとしたを、海堂が呼び止める。 「……」 「今帰りか…遅かったな…」 労わるような海堂の言葉に、溢れそうになる涙をのみ込んだ。 「…おめでとう…薫ちゃん。」 「ああ…」 「特待生…選ばれたんだってね、おめでとう。」 「あ゛…？」 昼間のこともあり特段何かを期待していたわけでもないのだが、 毎年、自分の誕生日を祝ってくれていたのことである。 その意外な発言に驚きつつも、海堂は次の言葉を待つ。 「アメリカ…行っちゃうんでしょ…？」 「………」 の問いに、答えることができない。 一方は、震える声を振り絞って続ける。 「…三条さんと…一緒に…」 感情が、止まらない。 「…青学で…一緒にテニス頑張ろうって、言ったよね…？ 男テニのみんなのことは、もういいの？ みんなで全国大会、目指すんじゃなかったの…！？」 想いを吐露するかのように一気に叫んだ後、はっと我に返り口をつぐむ。 「…ッ…ごめん…嘘…今の、全部忘れて…」 うつむいていた顔を上げ、笑顔を作る。 だがその表情は、痛々しいほどに歪んでいた。 「…ごめん…ね…」 強がった表情を浮かべながらも、 こらえていた涙がぼろぼろとこぼれ落ちる。 「…アメリカに行っても…テニス…頑張って…」 「………」 「…サヨナラ…！」 精一杯の別れを告げ、走り去る。 「オイ待て…！」 呼び止める海堂の声が、虚しく響いた。 ＊ ＊ ＊ 夕闇に包まれた、自宅近くのテニスコート。 かつて通い詰めた懐かしい場所に、海堂は足を踏み入れる。 「…さっき秘書から連絡があったわ。 ご両親が、留学の承諾書にサインしたって。」 冷徹な声とともに、近付いてくる足音。 「最初はずいぶん反対されていたようだけれど… おじ様もお仕事での立場上、政府からの要請となれば 応じざるを得なかったのでしょうね。」 闇の中から三条が現れる。 「先生方も、青学始まって以来の快挙だって喜んでくれてる。 後はあなたが首を縦に振るだけ…」 「……随分とナメた真似してくれたじゃねえか……」 長い沈黙の後、ようやく海堂が口を開く。 「…どうして？ 感謝こそされても、怒られるようなことはしていないはずだけど…？」 さらさらと顔にかかる髪を耳に掛けながら、三条は海堂の顔をのぞき込んだ。 「お前は…親父のことが嫌いだと言っていたな。」 「ええ、嫌いよ。大嫌い。」 「それは何故だ…？」 「自分のことしか考えていない…お金にものを言わせてやりたい放題で… このテニスコートだってそう、まちのため、みんなのためとか言いながら、 本当は票を集めるためで…」 「…ならば今のお前はどうだ？」 海堂の問いが、三条の言葉を遮る。 「転校だの留学だの…一人で勝手にやってりゃいいものを、 人を巻き込んで周りの奴を傷付けて…親父の金や権威に頼って、 テメエのやりたいことをやっているだけじゃねえのか？ …親父のやってきたことと、何ら変わりはねえだろうが！？」 「―― 何が解るのよ！？」 初めて発せられた、三条の鋭い声。 そして次の刹那、三条は海堂の胸に飛び込んでいた。 「そうよ…私はお父様が大嫌い。 だから逆に、利用するだけしてやろうって思ったの。」 「………」 背中に回される細い腕。 海堂は、何も言わず三条の言葉に耳を傾ける。 「政治家の娘だ天才だともてはやされても、それは私の意思じゃない… 私は、普通で良かった。普通が良かった。」 「………」 「普通に学校に行って、普通に部活頑張って、普通に友達と遊んで… 赤点とって先生に怒られたり、試合で負けてみんなで泣いたり、 お小遣いをやりくりして友達と出かけたり…」 「………」 「だけどみんな、私を羨ましがるばかりで… そんなこと、誰にも言えない。誰も解ってくれない。 …だから、遠くへ行きたかった…」 顔を上げ、まっすぐに海堂を見つめる三条。 その瞳は、心なしか潤んでいるように見えた。 「海堂君…あなたなら、解ってくれるんじゃないかと思ってた…」 「………」 「…あなたとなら、自由に夢を見て… どこまでも、一緒に行けるんじゃないかと思ってた…」 「……………」 そっと体を離し、海堂とすれ違うように数歩進んで振り返る。 「ごめんね… だけどもう、後戻りはできないのよ…」 夜風に揺れる髪の下で、その瞳が冷たく光った。 Back← →Next リストに戻る |